こんにちは😊寒いです⛄
早速ですが、皆さんは、福の神、貧乏神の名前だけは知っているかと思います。だけど、いったい何者なのかは、ハッキリと知らないですよね。
そこで今日は、福の神、貧乏神とは何ぞや❓と言う事で調べてみました。
福の神=吉祥天(きっしょうてん)=姉
貧乏神=黒闇天(こくあんてん)=妹
この二人は双子で、常に行動を共にしています。姉だけ家に迎え入れる事は出来なくて、妹と一緒に迎え入れなければなりません🤪どう言う事❓
過去記事のドゥルガー編の最後に、名前だけアップしています。
ここ⤵️⤵️
そうドゥルガーは日本では、黒闇天として吉祥天の双子の妹に変装(化身というよりも変装の方がふさわしいと思いまして🤭)しております。他にも、准胝観音(じゅんでいかんのん、じゅんていかんのん)だとか色んな名前を使い分けています。
ちなみに、この准胝観音を祀っている上醍醐の准胝堂(1968年再建)が2008年8月24日 - 落雷による火災でほぼ全焼したそうです。
さて、黒闇天の説明を見ますと、
黒闇天=引用
つねに姉の吉祥天と行動を共にするが、彼女の容姿は醜悪で性格は姉と正反対で、災いや不幸をもたらす神と、設定されている。『涅槃経(ねはんきょう)』には「姉を功徳天(くどくてん=吉祥天)と云い人に福を授け、妹を黒闇女(こくあんにょ=黒闇天)と云い人に禍(わざわい)を授く。此二人、常に同行して離れず」とある。
ヒンドゥー教では、別名である原語の“黒耳”が擬人化され、シヴァ神の妃であるドゥルガーと同一視され、またヤマ(閻魔)神の妹とされた。ただし、『大日経疏(だいにちきょうしょ)』に「次黒夜神(じこくやじん)真言(しんごん)。此即閻羅侍后也(これそくえんらじごうなり?)」などとあることから、密教では中夜を司り閻魔王の妃とする。
と、書かれています。
漢字ばかりで読み辛いですね💦意味が分かっても読み方が分かりません😂読み方で躓(つまず)くなんて、仏教、面倒くさいですね。
で、黒闇天の正体を簡単に整理すると、
仏教 =黒闇天(黒闇女)他にもありますが代表としてあげてます。
ヒンドゥー教=ドゥルガー。シヴァ神の妻であり、閻魔大王の妹。
一方、吉祥天を「福天」で調べると、
福天=引用
昔話の『貧乏神と福の神(あるいは、福の神と貧乏神)』は、ストーリーはさまざまだが、福の神と貧乏神が2柱1組の神として現れる。福の神は姉で吉祥天、貧乏神は妹で黒闇天だともされる(この2天は仏教でも姉と妹である)。貧乏神を篤くもてなすと福の神に変ずるというバリエーションもあり、井原西鶴の『日本永代蔵』にはそれを題材にした話がある。
七福神、あるいはその1柱を意味することもある。
と、言う様な解釈となっています。
福の神こと吉祥天は、インド(ヒンドゥー教)では別名ラクシュミー。ラクシュミーもアラクシュミーと言う姉(インドでは姉になっているらしい)がいるとされています。インドでは、「ディーワーリー」と言う日本のお正月にあたる行事が行われ、その時に、ラクシュミーをお祝いするそうです。
しかし、前述にある様に、ラクシュミーを祝う事はアラクシュミーも同時に祝っているのと同じ事。全国民がその事を知って祝っているのかどうかは定かで無い。きっと知らずに祝っている人がほとんどだと思いますよ😥
で、この吉祥天と黒闇天の話がありましたので紹介します。
吉祥天女と黒闇天女=引用
ある家に、とても美しい女の人が訪ねてきました。豪華な服を着て、
見るからに気品のある女性でした。その美女は、「私は吉祥天です。
福徳を授けに来ました。」といいます。幸福の女神の到来ですから、
家の主人は大変に喜んで、家の中に招き入れました。
ところが、そのあとから、もう一人の女性が入ってこようとしています。
こちらのほうは、見るからにみすぼらしい、醜い女性でした。「おまえは誰だ。」と主人が問うと、「私は黒闇天(こくあんてん)。
私の行くところ、必ず災厄がおきる貧乏神です。」と後からきた女性が言いました。家の主人は、貧乏神に家の中に入ってこられてはたまりませんから、「おまえなんか、とっとと消え失せろ。」とどなりました。
すると、その黒闇天は大声をあげて笑いました。「あなたは馬鹿です。さっき入って行った吉祥天は、わたしの姉です。
わたしたち姉妹はいつも一緒に行動しています。わたしを追い出せば、姉の吉祥天だってこの家から出て行きます。」
そして、そのとおり、吉祥天と黒闇天は肩を並べて、その家を去って
行きました。
ちなみに、貧乏神とは、貧乏になる事では無くて「災厄」が起きると言う事。そして「災厄」とは、不幸な出来事、わざわい、災難が起きると言う事だったんですね🤨へ〜。
引用先のブログ主の思考のズレが気になったので・・・
ついでに、この引用先の方の思考なんですけど、おかしい事を言ってるなと思ったので紹介させてもらいます。
女性は自分の中の「光の部分」だけを表現しても、それは本当の意味での美しさとは言えません。 自分の中の「闇の部分」、そう凶悪で凶暴で残虐で非道で、とことんブラックな部分を出してこそ女性は輝くのです。
(中略)
私は吉祥天女と同じくらい黒闇天女が好きです。 そしてその両方の性質を遠慮しないで、どちらも出し切っている女性こそとても美しく魅力的で素敵だと思います。
と、まあこの様に書いてあるんですけど、違和感ありませんか❓
一般庶民が、そんなに凶悪で凶暴で残酷で非道な人が多いんでしょうか❓そんな事ないですよね。
今まで戦争を起こして来た者とか、富と権力をものにする為に悪を行って来た権力者、独裁者なら当てはまるでしょうが、一般人の多くにその様な人はまず居ないのではないでしょうか。
見方を変えると、余程荒らくれた人生を送って来た人物だったらいるかも知れません。
とことんブラックな部分って・・皆さん、有りますか❓そんなもの普通の人は無いんじゃ無い⁉️そう思う事自体がサタンの考えに近く、聖なる神様とは、かなりかけ離れた人生を送って来たんだろうなと察します。
しかも、そう言う部分を出してこそ輝くって・・どう輝くんでしょうか❓
全然、良いとこ無いやん、って思える程の感じ悪い人しか想像出来ないんですけど・・・😅私なら、関わりたくない人物として一番に上げるでしょうね。
自分の思いを全部出すと、世の中、喧嘩だらけになりません❓
自己中心的な権力者が多くいるから、戦争や暴力が蔓延(はびこ)ったんじゃ無いのかなぁ。今は、憲法によってかろうじて権力者の暴走が起きなくて済んでいる状態かなと思いますけど・・・。
って書いてみて、このブログを書いた人はどんな人なのかプロフィールを見てみたら、ビックリ🤪神道も密教もされた僧侶との事。なんか、やけに頷(うなず)けます。
聖書では、
ルカによる福音書 第11章 39-41
そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲(どんよく)と邪悪とで満ちている。
愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。
ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。
とあって、これは、どう言う意味かと説明すると、
器の外を洗ったりして綺麗にしても、器の中が汚くては、美味しい料理も乗せたくないし、そんな汚い器で食べたくないですよね。
それと同じで、外側だけいい人のふりをしたり、現代なら整形してカッコ良くなって見た目だけ綺麗にしても、心をきれいに磨かないといけませんよ、心を磨く事が大事ですよ、と言う意味です。
なので、このブログ主の言う様に、ブラックな所とかを出すんでは無くて消し去る事が大事。もし、ブラックになりそうなら、ならない様に悔い改めたりして清めなさいと言う聖句です。
善の部分はそのままに、悪の部分を取り除きましょう、って事です。一緒にしたら意味がありません。
それなのに、ブログ主は僧侶でありながら善も悪もそのままでいい、全部を出しなさいと言っておられるので、聖なる神様とは全然違うな〜って思いまして、苦笑いするしかないです。
では、今日はこの辺で😋