さて、今日は何を話そうか!?

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万葉集のような古代の文学からも、日本の本当の歴史が見えてくる🤔

こんにちは😊

前回は、「万葉集」は古代韓国語で書かれたもので、万葉歌人朝鮮人だったのではないかとお話しました。

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万葉集

当時、大陸からやって来た渡来人は、日本人よりはるかに教養もあり優れた技術を持っていたと思われます。(渡来人=歴史用語としては、4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多い。)

当時は、未だ文字を書ける様な日本人もおらず、万葉歌人になれるのは大陸からやって来た知識のある渡来人しか書く事が出来なかったと思います。しかも、王族に関わる人達しか書けない。たとえ庶民が字を書けたとしても、和歌がよめるほどの知識は無かったと思われるからです。

 

前回、「詠み人は天皇から下級官人はては乞食(こじき)まで貴賤貧富関係なく書かれている」という記事を取り上げましたが、この中の"乞食"という身分、いくらなんでも現代でいうところの乞食の意味とは違います😅当たり前ですよね。

この乞食というのは、文字通りの意味ではなく、芸を売る見返りに食を得ていた芸能民の類だろうというのが大方の説だそうです。この時代の芸能民は、王家に出入りしてそこで稼いでいたんでしょうね。庶民に娯楽はまだまだ先の事だと思います。なにせ、庶民が読み書きそろばんの出来る様になったのもずーっと後の江戸時代頃からなので・・・。

さて、今回は、万葉集朝鮮人によって作られたと思えるその根拠をさらに掘り下げていきたいと思います。って言うのか、古代の日本の発展は、大陸からの文化文明によって成された事ばかりだった事を認識しておく必要があるのではと思います。

朝鮮半島では、三国時代(百済高句麗新羅)の終焉が7世紀頃だと言われています。そして、万葉集の書きはじめは、三国時代が終わった7世紀後半頃から始まった。


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三国時代の地図】

当時の中国や朝鮮半島は、戦乱が絶えずあったので渡来人の多くは難民として東へ東へ(日本へ)と進んで行ったと思われます。

ここで豆知識・・・イスラエル民族も戦乱で脱出する時は、東に向かって進んで行きました。何故なら、西に行くとエジプトがあり、イスラエル民族はモーセに救い出されるまで、エジプトでつらい奴隷生活を送っていたからです。なので、救い出されたあとは西へ行くのを拒み、東に新天地を求めて移動したといわれています。

東の最後の国、日本人がイスラエル民族の血を引いていると思われるのも、こういった事が考えられるからです。もちろん、中国人や朝鮮人の中にイスラエル民族の血を引いていた人がいたから、日本人もその血を引く人が存在出来た訳で・・・。

で、日本の自然人類学者の埴原 和郎(はにわら かずろう)氏が、紀元前2世紀から8世紀までの1000年の間に、その数、数十万人から100万人ぐらいの渡来人があったのでは、という説を提唱しています。

縄文時代に26万人いた人口が、弥生時代になると8万人程に減りその後急速に60万人増えたと言われています。


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【日本の人口の超長期推移】

イメージがわかないと思うので、各都道府県の人口で近い所を探してみました。

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日本の都道府県の人口2017年版

人口が少ないと言われている鳥取県で573,441人(約57万人)、島根県で694,352人(約69万人)。弥生時代の日本の人口は、鳥取か島根の一県分で収まる数だったんですね。ちなみに、東京都は13,515,271人(約1351万人)。東京、すっごい人数ですね😱

弥生時代に60万人増えたとしても、古代はそれがいくつかの集団として散らばっていたので、ひとつの集団の塊はこれよりも少ないでしょうけど・・・。


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で、いくら稲作が出来る様になったとしても、そんなに急に人口は増えないだろうし、農業は自然との闘いだから上手くいく時もあればいかない時もあります。

なので、急に人口が増える原因として一番考えられるのは、大陸側の戦乱などの原因により日本に多くの渡来人が来たから、と考える方が自然です。(頭が硬いのかして、こう言う考えに否定的な知識人も多いそうですよ)⬅️「新しい歴史教科書をつくる会」がその典型的な団体です。(彼らを支援している団体が日本会議なので、思考もそうなるんでしょうね)

中国の前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)後漢(ごかん、25年 - 220年)の頃の時代に民族の大移動があったとの記事があります。

引用

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上記の記事を載せている日本シティージャーナルさんという所の記事においても、歴史的な観点から民族の大移動が起きた内容が書かれています(戦乱だけが原因ではない様ですけど・・・)。⬅️(ここのブログは、ユダヤ人(イスラエル民族)の移動を追っているブログの様ですね)

で、その後も数回に渡り、同じ様に民族の移動があったと思います。戦乱もあったし、近いし、同族も日本に来ていたでしょうから・・・。

いずれにせよ、高度な文明文化が次々と開花したのは、日本独自で急に閃いたものではなく、大陸から持ち込まれた技術や道具、文明によるもので間違いないでしょう。

で、歴史上の解釈では、渡来人は平和的に日本の中に融合していったとされていますが、果たしてそうでしょうか⁉️

大陸から渡来した人達は戦闘のプロ。彼らが、日本に来て大人しく農業や狩猟をしていたとは思えません。そんな事をしていたのは、下っぱの平民だけだと思います。

日本には、朝鮮王族がやって来ています(中国の王族も来ていたと思います。秦氏は中国由来なので・・・)。で、上の方の人達が農業をするとは思えませんし、彼らは金品や農作物を弱者から吸い上げて生きるしか出来ない(どの国でも同じだと思います)。なので日本に来ても権力闘争は避けられない。

その結果、大和朝廷が誕生したと思います。大和朝廷朝鮮人が作った王朝の可能性が高いです🤓

集団の中には、支配する者とされる者がいて、支配される者の中から次第に庶民(日本人)となっていったのでは無いかと思います。逆にエスタブリッシュメント(支配階級)達は、最後まで権力を手放したくないでしょうから、あの手この手で人々を支配する事に余念は無いと思います。

で、渡来してきた朝鮮王族が使っていた言語についてですが、

引用

百済語(くだらご)は朝鮮半島百済国(紀元前18年-紀元660年)に話されていた言語である。百済の王族は高句麗から出ているため、彼らは扶余系高句麗語を話していたと考えられる(扶余系百済語)。一方百済の民衆は三韓の言葉(韓系諸語)を話していた(韓系百済語)が、どの言語に属すかなどについては不明である。

(中略)

百済の言語についてはじめて記した史書は『梁書』である。

「今言語服章略與高麗同」

つまり言語や服装などが高句麗とおおよそ同じだと記している。なお新羅の言語は音節が通常子音で終わる閉音節なのに対して、高句麗百済そして倭では母音で終わる開音節だったと考えられている。

(現代の日本語も母音で終わっていますね🤓)

上記によると、百済の王族は高句麗から出ていたので、王族は同じ言語。民衆は別の言葉だった様です。新羅は、これらとは別の言語の様ですね。大和朝廷公用語百済語だと言われています。

さて、「万葉集」が全て読み説かれているかと言えば、そうではないらしいのです。古代韓国語が混じっているから、日本語読みだけでは読み解けないんだと言っている方がいます。

東京出身の韓国人作家・李 寧煕(イ・ヨンヒ)さんです。彼女は、『もう一つの万葉集(文藝春秋)という本を書いた作家です。

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古代韓国語で書かれたものを無理に日本語で読んでも、意味不明な訳で読んだ事にならないと・・・(ほんと、その通りですね😗)。現代の翻訳は、元の漢字のイメージから創作した新しい万葉集で、ある意味、素晴らしい創作力だと感心しておられます。

「平安万葉集」と「もう一つの万葉集」

 日本の読者の皆さま、本書をお読みになる前にどうかつぎのことを前提としてご理解ください。

 それは、現在「万葉集」の名でよばれているものは、万葉集ではなく、″平安万葉集″とよぶべきものであるということです。まえがきにのべましたように、万葉集はそのほとんどが古代韓国語で詠まれております。韓国語で詠まれた部分は韓国語で訓まないかぎり訓んだことにならないのは当然のことです。

 韓国語混入の割合についてはまだ正確に掴んでおりません。全文韓国語の歌もあれば一部韓国語の歌もあり、そのまま日本語ですんなり訓めてしまうものもあります。古い時代に詠まれた歌ほど韓国語の割合は多くなっているように思えます。

 本書ではおもに難訓歌をとりあげましたので、ほとんどの歌が韓国語です。韓国語なるがゆえに難訓歌とされていたのでしょうから、これらの十一首から類推して、四千五百十六首のほとんどが韓国語であると決めつけることはできないと思います

 しかし、概して前半部は大半が韓国語で詠まれていると申せます。さらに「枕詞(まくらことば)」がほとんど韓国語でありますので、古代韓国語で解読しないかぎり正確に訓めない歌の数は、万葉集のほぼ全首におよぶといってさしつかえないでしょう。

という訳で、万葉集は、古代韓国語を巧みに操れる人達が作ったと言えると思います。そして、そんな事が出来るのは渡来人しかいない。彼らは、日本人になりすました渡来人達だったと言えるでしょう。っていうのか、何故、渡来人を日本人と解釈してしまったのかは、現代の学者達に聞かないとわかりません。それどころか、今でも学説は日本人のままです。どうしても、日本人としておきたいんでしょうね。⬅️先程の「新しい歴史教科書をつくる会」も同じ解釈の様です。どうしても、日本人説を通したいらしい・・・🤨

で、その渡来人らが、古代韓国語からひらがなや日本語を作っていったのでしょう。

百人一首で有名な阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が第9回遣唐使として、727年に十代で海を渡ったんですが、Wikipediaによると、

唐で国家の試験に合格し唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。

と、この様に書かれています。国家の試験とは、科挙(中国の官僚登用試験ですごく難しいらしい)といい、しかも現地語で合格したそうです。

頭がいいとかの問題では無くて、彼が王族で中国人か朝鮮人(当時は、領土的に朝鮮であっても中国人がいた地域もあるらしい)だったから、バリバリ喋れるし、文字も読めたし書けたんだと考えていいと思います。だから、難関試験に合格出来た!

唐で35年住んだのも、友人たちの中に李白など中国の超有名文化人がいたのも、彼が日本人では無かったから、言葉の壁が無かったという事です。

さらに、遣唐使が廃止された理由は、恐らく「中国語を話せる人がいなくなったから・・・」という事だと思います。長年、日本に住んで日本の言葉を作り使っていると、彼らの2世3世は当然喋れなくなりますから・・・。ちなみに、歴史の解釈では理由は分からないとなっているそうです😑

さて、令和という元号万葉集の「梅花の宴」32首を参考にして選ばれたという話です。

何故、日本の花・桜ではなく梅なのか?一応『万葉集』に歌い込まれている花の数を列挙すると、萩140首、梅約120首、松約80首、橘約70首、菅(すげ)約50首、桜約40首などとなります。当時、梅は中国や朝鮮で愛でられていました。しかも、輸入するしかなく貴族の家の庭にしかなかった。言い換えれば、貴族がわざわざ輸入してまで欲しい植木が梅だった。何故、そんなに梅が好きだったのか・・・貴族は、渡来人だったという事が言えますね。

以前から話している李家の家紋がこちら⬇️。


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はい、「梅」です。安倍総理は、李家だと過去記事で伝えました。

 

merkun.hatenablog.com

 

merkun.hatenablog.com 

「梅花の宴」の和歌は、彼らの先祖が歌ったものなのかも知れません。もちろん、天皇家も同じです。日本会議神社本庁などの右翼は在日が多いです。その在日の人達が天皇をメチャクチャ称賛していますし、平成天皇も、過去に「韓国ゆかり」発言をしています。

天皇、韓国とゆかり発言 l KBS WORLD Radio

さらに、平成29年に平成天皇皇后が現役時、高麗神社に勅使(ちょくし=使者)を送らず自ら参拝しています。(高麗神社は李氏朝鮮の王族(李王家)の神社でした)旅行とは言え、普通、天皇は自ら参拝する事はされません。

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【左:平成天皇皇后、右:当時の参拝の看板】

さらに、旧皇族が売りの竹田恒泰氏が、"朝鮮飲み"というのをやっています。韓国の礼儀作法らしいです。

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【左:竹田恒泰氏、右:ヨン様
普通、日本ではコップの底に手を添えます。失礼にあたりそうなら、横を向くか斜め後ろを向いて飲めばよくないでしょうか⁉️

では、本日はこの辺で😙