さて、今日は何を話そうか!?

世の中に対する疑問や思い、自身の習い事、出来事などをいっぱい記録していけたらいいなと思っています。

「聖徳太子の名前が消えるかも知れない」と噂されていたって知ってました❓🤔

こんにちは😊

前回は、紋章だとか国旗等には、何か隠された別の意味があるのかも知れないと言うお話をしました。今回は、ちょっと目先を変えて聖徳太子がどんな人物だったのか考察してみようと思います。

何故、聖徳太子なのか自分でも分かりませんが、4月1日に新しい元号が「令和(れいわ)」と発表されました。

今どき、エイプリルフールの日に発表するなんてなかなか出来ません。まさか、「冗談でした」なんて洒落が言えるシチュエーションでもないですし・・・でも、発表されました😑

で、朝日新聞4月2日の朝刊。
f:id:merkun:20190402105651j:image2019年4月2日、朝日新聞朝刊

パッと新聞を見ると悪いんですけど、お葬式の様な暗いイメージを受けます(リボンを付けたらそのまんまです🤬)。カラー刷りに出来るんだから、もうちょっと何とかならなかったんでしょうか⁉️

個人的な感想なんですけど、名前に"レイ"がつくので、よく"霊"の話しをする私は、そっちの方を連想するので余り響きが良くないなと感じます。そんな感じに思っていたら、この大きな見出しがドーンと・・・。余計にそんな風に思わせるんですけど・・・😓

その"令和"という元号の由来が万葉集からとの事で調べると、万葉集は、7世紀後半から8世紀後半に作られたようです。

丁度、聖徳太子が6世紀後半から7世紀前半に活躍したその後の時代となります。という事は、万葉集が作られる以前の時代にあった事が、のちの時代に良くも悪くも受け継がれる訳ですよね。

で、何日か前から、聖徳太子の話しをしなさい、と霊感らしきものを受けてたんですが、何だかよく分からず、その様なイメージを受けて何を話そうか考えてましたら、元号の由来が万葉集からとの事で、その辺りの時代を調べよという事なのかなと気が付いた次第です。

で、その聖徳太子ですが、2年ほど前に、学校の教科書からも消される扱いを受けそうになったことがあるそうです。

f:id:merkun:20190402224958j:image【正論】周到な「聖徳太子抹殺計画」 次期指導要領案は看過できない 拓殖大学客員教授・藤岡信勝(1/4ページ) - 産経ニュース

昔は、お札💴と言えば聖徳太子しか考えられなかったんですけど、福沢諭吉になってからは、今だに一万円札は誰だっけと考えないと出て来ません。五千円札に至っては、もう全く顔も思い出せません💦(調べると樋口一葉でした、やっと覚えた新渡戸稲造はもう消えてましたね😅アハ)

何でも、数々の偉業は彼一人では出来なかったらしいから、と言う理由で聖徳太子という名を使うなという事らしい。

彼の行なったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂(こくしへんさんい)」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏(さんぎょうぎしょ)、法隆寺四天王寺の建立)」など。

当たり前ですが、どんな人でも協力者がいなくては達成出来ません。そんな事を理由にしだしたら、歴史上の人物は全員消えるかも知れませんね🤭

そういう訳で、"何で今更変更しないといけないんだ"と騒動が起こり、結局、教育現場で混乱するからと元のさやに収まったそうです。

普通に考えたら、そこでメデタシメデタシで終わるんですけど、そもそも、今更名前まで変えてしまえと言い出したのには、何か意味があるんではないか、と疑い深い私は思ったんで調べてみました😙

聖徳太子という名前は太子が亡くなった後でつけられた名前。どうやら太子の死に関係があるようです。

歴史というのは勝者の側が、勝者の祖先自慢として作られた話でもあるので、何処までが本当なのか関係者達しか分からない。なので、学校の歴史教育は、ほぼ役に立たないと個人的には思います。しかも、教科書も紙面の都合上、細かく書けませんからね。

聖徳太子は、出生574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)〜死去622年4月8日(推古天皇30年2月22日)に存在していたとされています。父:用明天皇、母:穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。母親の方は、出生がいつなのかは分かっていないらしいです。

で、聖徳太子の顔なんですが、お馴染みのあの顔は、中国の敦煌(とんこう)にある壁画を真似て描かれたそうです。

f:id:merkun:20190402162112j:image[元聖徳太子と言われていた人物画]

f:id:merkun:20190402161744j:image[敦煌の壁画]

太子の身長は180cm、78kgと推測されているそうです。根拠もはっきりしていて、

日本史有名人の身体測定』(KADOKAWA)の著者・篠田達明氏の話

聖徳太子の身長は180cm、78kgと推定しています。平均身長が160cmの飛鳥時代では大柄。根拠となったのは法隆寺の夢殿に保存されていた救世観音です」(以下、「」は篠田氏)

 この観音像は聖徳太子の等身大であると伝えられてきたが、1000年以上、秘仏として布に巻かれたままだった。

開封すると呪われるという言い伝えがあったため」

 だが、明治時代に米国人の東洋美術史家・フェノロサが永い眠りを解き、聖徳太子の身長が判明した。

飛鳥時代の平均身長が160cmぐらいなのに対し、180cmもあるとは現代人と比べても大きい方です。

従兄弟には、蜂子皇子(はちこのおおじ)と言われる人物がいたそうです。

蜂子皇子(はちこのおおじ)

崇峻天皇(すしゅんてんのう)の第三皇子として誕生したと伝わる。崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇蘇我馬子(そが の うまこ)により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して、羽黒山で神仏と接触し、現在「出羽三山」と呼ばれる地域の信仰を創始したといわれています。


f:id:merkun:20190403131249j:image【蜂子皇子】

見ての通り、ちょっとグロテスクな顔立ちをしています。伝えによると、

蜂子皇子の御姿は、御顔が醜く、口は大きく耳の根本まで裂け、鼻は下にさがって一寸(約3cm)もたれ、顔の長さは一尺(約30cm)もある異様な御姿であったと伝えられています。

現在残されている肖像画は、気味の悪いものが多いが・・これは人々の苦悩を一身に引き受けたからだとも言われています。

現代の日本人の顔の大きさの平均を調べると、男性は全頭高23.2cm、頭幅16.1cmであり、女性は全頭高21.8cm、頭幅15.3cm。

それと比べると、蜂子皇子の顔は大きいですね。身長がかなり高かったのかも知れません。聖徳太子の従兄弟ですから・・・。

で、この異様な姿は、「人々の苦悩を一身に引き受けたから・・・」と、まことしやかに伝えられていて、それを聞いた人も「うんうん、そうやね〜なんでやねん‼️」となるんですけど、普通に考えたらそんな事がある訳ないですよね😔😣😒

どうやら、周りの人の肌の色と比べると、明らかに彼は日本人ではなかったようですね。従兄弟が外国人ならば聖徳太子も日本人にしては背が高いし、髪の色も赤毛と言われていたそうです。少なくとも彼らは、日本人ではなかったと言うことが言えると思います。側近の秦河勝も渡来人なので、言葉も外国人同士ならば不自由はなかったはず。

で、聖徳太子の死は病死では無くて、実は殺されていたのではないかと言われています。というのも、

参考

(中略)

【①聖徳太子は妻との死亡時期が一日違いであること】

Wikipediaにはこう書いてあります。

推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。〉

聖徳太子と妻の死亡時期が、わずか1日違いなんです。
しかも、聖徳太子の母もその2ヶ月前に死亡しています。

このように、立て続けに、死亡するのは、ほとんどあり得ないことで、これは、聖徳太子と妻とが一緒に殺されたと言う事を、表しているのです。

次に二つ目の根拠です。

【②聖徳太子の鎮魂式が全くなされていないこと】

飛鳥時代の当時、天皇関係者などが亡くなると、一定の期間、「殯(モガリ)」と呼ばれる、鎮魂式というか鎮魂儀礼が催されるのが一般的でした。

推古天皇欽明天皇にも、さらには、聖徳太子の弟(来目皇子)が亡くなった時でさえ、「殯(モガリ)」が為された形跡があります。

でも、聖徳太子の死には、そのモガリの記録が一切ありません。
そして、ガリを行わずに、すぐに埋葬されてしまっているのです。。。

推古天皇の摂政だった人物ですから、モガリをして然るべき人物のはずなのに、されていないのは、当時の常識からすれば、不自然極まりないことなんです。

ちなみに、聖徳太子以外で、このモガリが無かった天皇として、(叔父の)「崇峻天皇」が居ます。

実は、この「崇峻天皇」も、592年10月4日に「暗殺」されています。(犯人は蘇我馬子とも言われています)

Wikipediaにも「崇峻天皇」の項目でこう書いてありますよね^^;

物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、
法興寺飛鳥寺)や四天王寺などの、造寺事業を積極的に行った。

しかし、即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、次第に不満を感じるようになった。

592年10月4日に、猪を献上する者があった。

天皇は笄刀(こうがいがたな)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。

そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した

そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒(やまとのあや の こま)に暗殺をさせた。〉

臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。

死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。


いかがでしょうか?

殯(モガリ)も行わずに、まさに、すぐ葬ってしまっている事等、
崇峻天皇の暗殺~埋葬までの様子は、聖徳太子のケースとほとんど同じなのです。

 

以上が、二つ目の根拠ですが、最後に三つ目の根拠です。

【③聖徳太子の死後643年に、太子の子孫25人全員が蘇我入鹿に殺されていること】

一説には、山背大兄王は生き延びている(?)という説もありますが、聖徳太子の子孫が殺されているというのは、事実だと思います。

下記の系図を見れば一目瞭然ですが、聖徳太子の血筋は、蘇我氏によって、根絶やしにされているのが分かるはずです。
f:id:merkun:20190404170902j:image

それで、以下に述べる部分を良く考えて見て欲しいのですが・・・
聖徳太子蘇我蝦夷(入鹿の父)とともに、仏教を導入したと言われている人物。

要するに、蘇我氏の大切なパートナーと言われていたのが、聖徳太子であり、その子孫を、全員殺害するというのは、幾らなんでも、恩人に対して非道な仕打ちです。

こんな事は、普通は出来ないはずなんです。

なので、この部分には、何処かに嘘が混じっていると言う事です。

実は、率直に言ってしまえば、聖徳太子は、蘇我氏のパートナーでも何でもなく、蘇我氏にとって聖徳太子は、ただの政敵に過ぎなかったというのが、真実です。

だからこそ、聖徳太子は暗殺され、子孫も皆殺しの憂き目にあったのです。

(中略)

以上の3つの理由から、聖徳太子が暗殺されている可能性は高い!

という事で、私も暗殺説は正しいと思います。

その後、中大兄皇子らによって仇討ちをされた様です。

ちなみに、蘇我入鹿は後年645年の乙巳の変大化改新)で殺害されています。

下記は、奈良県指定文化財となる「絹本著色多武峯縁起」に描かれた、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=のちの天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺の場面です。

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日本書紀を編纂したのは藤原不比等( 中臣鎌子中臣鎌足藤原鎌足の息子)。

父達によって、聖徳太子一族の仇を討ち、日本書紀にて厩戸王では無く聖徳太子と称号を与えて称えたのではないでしょうか⁉️

では、今回はこの辺で。次回に続く・・・😙