こんにちは☺️
前回は、シヴァ神が牛頭(ごず)天王で、牛頭天王の正体は、聖書で気をつける様に言われている悪魔👿バアルでした。
そして、牛頭天王はスサノウノミコトでもありました。
色んなものに化身という形で化けてますね😣正しい事をしているのであれば、化ける必要など全く無いと思いませんか⁉️私達もメールアドレスを使い分けしたりするけど、それは仕事用とか遊び用とか用途に分けて整理する為であって、乱雑にならない様にする為です。でも、用途が一緒ならわざわざ分ける必要はありませんよね。面倒くさいし・・・😗
彼らは、やましい所があるから、カムフラージュしなくてはいけなくなるんです。
で、聖書に書いてあるやってはいけない事の中で「天の万象を拝むこと」というのがありましたけど、スピリチュアルとか5次元とか高次元とか宇宙の何とかとか、最近よく耳にしますよね。あれも悪魔崇拝するはめになるから気をつけなさいって事です。気をつけ方が分からないから、やめとけよ近付くなと教えてくれているんです。
悪魔崇拝の何処に危険があるのか、疑問に思う人も多いかと思います。
皆さんは、“千と千尋の神隠し”に出て来る「カオナシ」がどういう妖怪か覚えているでしょうか❓(知らない人はどっかでググってね🔎)
その容姿については、シヴァリンガを真似ている感じがプンプンしますね。(詳しくはこの記事⬇️)
で、このカオナシは、相手が欲しがるものを与えて、最後には相手を食べてしまいます。青蛙(銭湯で働く男衆のひとり)が飲み込まれていました。千に負けてカオナシが吐き出したものの中に、その他の欲深い妖怪達も食べられていましたね。千は、最初から欲が無かったので襲われることはありませんでした。
この様に、たいした努力をしなくてもサタンは欲しいものを与えたりするそうです。ですが、それも最初のうちだけで相手が虜になってしまえば、次第に悪を行う事と引き換えに欲しいものを与えるそうです。なので、最後は命まで引き換える事に・・(人間の方は気付いていない)。「悪魔に魂を売った」とかいう言葉を聞いた事がありませんか⁉️
死んだのが、肉体ではなく霊魂だから気づかない。肉体だけでも、取りあえずはこの世で生きる事は出来るので、霊魂が死んだ事に気付かない。その霊魂が死ぬから、聖書の神様は気をつけろって教えてくれているんです。霊魂が生きて幸せにならないと、この世でもあの世でも浮かばれない、という事です。永遠の命である霊魂が死んだら、肉体が死んだ時に霊魂がいい世界に行けない、つまり地獄に行くと・・・。信じるか信じないかは貴方次第ですけど・・・😙
北インド全般では、マカラ・サンクラーンティという収穫祭があります。この日は、太陽神に感謝する日なんだそうです。これも太陽信仰(悪魔崇拝)のひとつといえます。ちなみに、マカラは「山羊座」、サンクラーンティは「移動」という意味で、太陽が山羊座に移る日という意味になります。
ところで、サタンのやる事は、聖書に書いてある事と面白いくらい正反対なんです。宇宙(太陽、月、星も)のものを拝む、偶像崇拝、淫乱、近親相姦、盗む、人間の生け贄、男色(だんしょく=男同士の同性愛)etc。という様に、全て聖書の逆になっている。聖書で止めなさいと言われている事が、悪魔教では、やりなさいっていう事なんでしょうね。サタンは人間を憎んでいて、人間の命を狙っていますから・・・。しかもストーカーの様にしつこい。
男色で思い出したものがあります。インドのアイヤッパン(ハリハラ)。向かって右半身がシヴァ、左半身がビシュヌ(ヒンドゥー教の3大神の1人)の合体神。ハリがヴィシュヌを意味し、ハラがシヴァを意味するそうです。つまり、創造と破壊の象徴。インドでは、最強の神と言われているんだそうな。
どの様な経緯でアイヤッパン(ハリハラ)が誕生したのか、その誕生秘話を。
ビシュヌが、霊薬アムリタをアスラたちから奪い返すためにモーヒニーという美女に化けたことから始まった。霊薬は無事に神々の手に戻ったのだが、ここで困った事態がおこった。美女モーヒニーの姿を見たシヴァが欲情してしまい、ついにビシュヌと交合(性行為)してしまった。それで生まれたのがアイヤッパンというわけである。
何でもありですな~😒ガネーシャと十一面観音(じゅういちめんかんのん)が結ばれて歓喜天(かんぎてん)となりましたからね。十一面観音も化身とはいえ男だし、ガネーシャも男ですからね。しかも、歓喜天は性行為したままの像なので、どこでも公に見せられる物でもないから秘仏扱いするしかない。そんなものを拝むとは・・・😓
歓喜天(聖天さん)は、大根と巾着がシンボルマークになっています。ガネーシャと十一面観音の抱き合っている姿は見せられないので、2つの大根がシンボルとなっています(葉っぱが、象の耳に似ているからですね)。実物の抱き合った姿は、よく見るとシヴァリンガそのものです。イヤハヤここまで来ると、どこまで悪なんだ、と言いたい‼️💢
以前、お稚児さんの話をチラッとしました。神社のお祭りで、生け贄とされたお稚児さんが御神輿(おみこし)に乗せられている、と・・・。
同じ様にお寺でもお稚児さんシステムがあり、お稚児さんにより上、中、下にランク付けされていました。
皇族や上位貴族の子弟が行儀見習いなどで寺に預けられる「上稚児」、頭の良さを見込まれて世話係として僧侶に従う「中稚児」、芸道などの才能が見込まれて雇われたり腐敗僧侶に売られてきた「下稚児」がいた。
そして、このお稚児さんは表向き上記のような事を日常はやっていたそうですが、それ以外に稚児灌頂(ちごかんじょう)という制度により、大人達の強引な解釈で作られた宗教上のシステムとして組み込まれるんです。
上記の中で稚児灌頂の対象になるのは中稚児と下稚児です。
稚児灌頂の説明で、表現が比較的マシ(わいせつ過ぎないもの)なものを参考にしますと、
日本の仏教ももちろん灌頂儀式はひろまった・・
しかしそのうちに天台宗(最澄)や真言宗(空海)などでは剃髪しない少年修行僧(7〜18歳)の稚児との慰め(性行為)を合法的に行うため儀式として仕立てたのである・・。どのように合法的かというと、日本の仏教の戒律では生身の人間との不邪淫戒(ふじゃいんかい)は禁じられているが、この稚児(少年)に灌頂の儀式をするということによって天台宗や真言宗では観音菩薩の化神(化身)となってしまい、生身の人間ではなく『この世の無い至高の者』となるので信仰の対象としての稚児を崇拝しそれと交わることはかまわないということらしい・・・。
(中略)
結局この習慣は日本仏教世界に秘密裏のうちに広がりまくり、美少年の稚児ばかり目立つようになったという・・・。
この生臭坊主(なまぐさぼうず)どもめ・・。
と書かれています。
要は、幼い少年を儀式によって神聖なものとして祀り上げ、そういう少年となら性行為を行える、と・・・。
「この神聖なものになる」とは、坊さん達の理屈では、観世音菩薩と同一の存在にするらしいのです。観世音菩薩だからやってもいいなんて、単なる都合のいい屁理屈ですよね。
しかも、菩薩に対して、全然畏(おそ)れ多くも無いんでないかい⁉️無礼極まりないと思うけど・・・。
おそらく同意も何もない、自分達の欲の為に、幼い子供達を襲っているのも同然なわけだから許せませんよね。子供達は、決してそんな事を望んでいる訳ではないと思います。
犠牲になっている子供達(中、下稚児)は、大半が貧しくて寺に連れてこられた子供達。誰も助けて貰える人の居ない中、生きる為に耐えるしかない生を生きていたと思います😭相手の境遇を思いやらず、むしろ(誰もその子をかばう大人達のいないのを)弱みにつけ込んでいるとしか思えないです。
坊さんでありながら、人の弱みにつけ込んで、ただ勝手な屁理屈で相手を利用し、人の人生を狂わす者達が人の道を説けると思います❓私は全然思いません😤
私の信仰の先生は、相手を犠牲(踏み台)にして自分が幸せになるっていう考えはおかしい、両方が幸せになる事が、本当の幸せでしょう、と教えてくれます。だから、悪なる思いをなくす努力をしなさいって・・・。
坊さん達のやり方は、実に卑劣だと思いませんか❓
しかも、この観世音菩薩が抜てきされた理由は、先程も出てきましたけど、歓喜天(ガネーシャと十一面観音)の話から閃いたんでしょうね。
この男色は、日本では既に9世紀の平安時代にその存在は確認されており、僧侶や公家の間で流行した男色が、室町時代に武士の間で盛んになり、江戸時代には衆道(しゅどう)として定着していった。おそらく、明治になっても直ぐには無くならなかったでしょうね。
衆道では、その様な少年達を色小姓と呼ぶそうです。
どなたかが、出世の為に割り切っているからいいんじゃないの、ってな事を書いていましたが、果たして皆が皆、そんな人達では無いでしょう。断ったら殺されていたと思います。
日本では、敗戦前(第二次世界大戦)まで、目上の者に逆らえる様な時代ではなかったですから、(敗戦後の)現代みたいに、はっきりものを言える事は有り難いですよ。(亡くなった母が、昔言ってました)
さて、古代の神殿でも、これと似た神殿男娼というものがありました。
聖書にもこの神殿男娼、男色について書かれてあるんですよ。悪魔崇拝者がユダヤ教・キリスト教に入り込んで神殿を汚(けが)した事が書かれています。
旧約聖書 列王記上 - 章 14-24
その国にはまた神殿男娼たちがいた。彼らは主がイスラエルの人々の前から追い払われた国民のすべての憎むべき事をならい行った。
列王記下 - 章 23-7
また主の宮にあった神殿男娼の家をこわした。そこは女たちがアシラ像のために掛け幕を織る所であった。
旧約時代でも新約時代でも、神殿男娼や男色がなかなか収まらなかった。日本でも、僧侶や公家から始まっていましたよね。古代でも王様や貴族から、この黒歴史が始まっていたんです。
で、新約時代に、聖書ではこう書かれています。
新約聖書 コリントの信徒への手紙一 - 章 6-9,10
それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
本日は、この辺で☺️